読書memo #1

青空文庫にて、有島武郎 著「惜みなく愛は奪う」を読んでいるが、しかしあまりにも難しく…読みすすめるのに非常に苦労している。

半分ほど読み終えたが、うまく理解できているのか果たして怪しいので、ここまでの内容を一旦全て整理してみることにした。要点を致命的にすっ飛ばしたり、あるいはアホみたいな解釈違いも無いとは言い切れないので、原文を読める読解力の持ち主は絶対にそうした方が良いと思う。

以下は原文のリンク。
青空文庫にて無料で読むことができる。
https://www.aozora.gr.jp/cards/000025/files/1144_11850.html

以下の目次の番号は、本文の番号と対応している。
全部で29あるうちの、とりあえず11まで書いた(後日更新)

1

明らかな事実として、私はこの世界に今日まで存在してきた。これについて私は確かに知っている。いかなるものであってもその事実をくらますことはできず、またいかなる威力も私からそれを奪えない。それは私が所有するただ一つの所有である。

永劫というものは非常に恐ろしいもので、ある時は凝然として淀みながら私に迫り、またある時は一瞬たりとも同様流転をやめないものとして私に迫ってくる。私はこの永劫の中のただの一点でしかなく、それを前にすると自分は何者でもない。一瞬のうちに跡形もなく永劫の中に溶け込んでしまって、私はいなくなる。

しかしやはり誰がなんと言おうと、生まれた以上はこの命は私のものであり、私はこの命を思い通りに生きることが出来る。

私が一つの言葉を申し出るとき、私以外の誰が私の言葉をあらしめるようにあらしめ得るのか。私は周囲の人と物にどう繋がれたら正しい関係に置かれるのだろうか。それをどのように見い出せば良いのか、誰がそれを教えてくれるのか。

―結局、自分自身ではないか。

思えばそれは寂しい道である。
私は私以外を頼ることが出来ない。

そしてそれは険しい道でもある。
私の主体が私自身であることを知るのは、私を極度に厳粛にする。

むちを打たれて抵抗できずに倒れるような自分を見ることも、生きていく上では時として必要である。困難を乗り越えながら懸命に進んでいく痛みの中に、私はある甘さを味わせる。しかしこの自己緊張の極点には恐ろしい自己懐疑がある。私はついに疲れ果てようとする。私がもう私を動かすことができないと思われる瞬間が来る。それを目の当たりにしなければならないというのは、私の眼前を暗黒にする。

しかしそれでもやはり頼れるのは自分の他にはない。結局私は私としての価値であることに努めようと思う。

私は、何者にも代え難く自分を愛することから始めなければならない。

2

元来、人が自分自身を表すのは最も簡単なことであるはずである。なぜなら自分自身というのは、その人自身が最もよく知り抜いているはずの事柄であるからだ。

しかし実際は違う。言葉は意味を表すためにつくられたものであるのに、それは当初の目的から堕落した。心の要求が言葉を作ったのに、今となっては物がそれを専有している。吃(ども)ることなしに私達は自分の言葉を語れない。恋人の耳にささやかれる言葉はいつでも流暢である試しがない。

言葉は不従順な僕である。私達はしばしば言葉に裏切られる。言葉は、私達がほんの小さな誤謬を犯すやいなや、すぐに刃を返して私達に切ってかかる。私達は自分の言葉ゆえに人の前に高慢となり、卑屈となり、狡智となって、魯鈍となる

こんな言葉でどうやって自分自身を誤り無く表現できるだろうか。

私はやむを得ず、言葉に潜む暗示によって多くの頼みをかける必要がある。言葉が私を言い表してくれなくても、そこに隠れた暗示は、私のことを伝えてくれるだろう。

けれども私は、暗示に私を託するに当って私自身を恥じねばならない。私を最もよく知るものは私自身であるとは思いながら、私の知り方は余りに乱雑で不秩序だ。

それでも私は、私の「個性を表現しよう」「あらゆる有縁の個性と私の個性を結びつけよう」という激しい欲求のために、あえて私から出発して歩み出して行こう。

私が餓えているように、ある人々は餓えている。それらの人々に私は私を与えよう。そしてそれらの人々から私も受取ろう。そのためには自分の引込思案を捨ててかかろう。許されるかぎりに大胆になろう。私が知り得る可能性を存分に申し出して見よう。ただただこの貧しい言葉の中から暗示が姿を隠してしまわない事を祈る。

3

神を知ったと思っていた私は、神を知ったと思っていたことを知った。私の動乱はそこから芽生えはじめた。

ある人が私のことを偽善者だと疑った。そこには疑いの余地などない。明らかに私は偽善者だ。

私はしばしば私自身よりも外界のことを顧慮しているが、それは私が弱いからである。私は弱いもののあらゆる窮策に通じている。1つの小さい嘘のために、また2つも3つも4つも嘘を重ねなければならない辛さを知っている。また、自分を強く見せようとするために常に心を戦慄させていなければならない不安も知っている。ある時には、自分の弱みをわざと周囲に晒すことによって憐憫や尊敬を得ようとする自涜も知っている。弱さは真に醜さであり、それをよく知っている。

しかし偽善者の本質は弱さではない。本当に弱いものは、その弱さ故に醜さも悲惨さも意識しない。反面、偽善者は多少の強さを持つ。彼は自分の弱みによって引き起こした醜さ悲惨さを意識できる強さを持っていて、弱さを、その強さによって取り繕う。

そんな偽善者に対して、ある人は「強味で弱みを取り繕うことで、無恥に安住している」と批判するが、しかし実際それは少しさばけ過ぎた見方なのだ。強さと弱さを同時に持っているものが、2つの矛盾を感じないことがあろうか。そして矛盾を感じながら、それに安住するということが果たして可能であるのか。

罪人(自分の罪を知り、それを悲しんでいる人)は、自分の強みと弱みの矛盾を声高に叫ぶことが出来る幸福な人間だ。罪人は叫ぶ。それを神は聞くことができる。ただし偽善者は叫ぼうとする強さをもっていない。故に神は聞かない。それだけの差なのだ。結局、罪人が持つものも偽善者が持つものも同じなのである。

偽善者はその心の片隅に、人に示すのをあえてしない苦痛を持っている。人の前に私を私以上に立派に見せようとする心はあれど、そこに埋めることの出来ない苦痛を全く失ってはいない。

自分がもし人の目の前に罪を犯すだけの強さがあれば、自分は偽善者から正しき意味の罪人になったかもしれない。しかし私はそうなるためにはあまりにも弱かった。本当に罪人となるには、私の想像できないような強さが必要とされるである。そういった意味で、信仰による安寧は、強者のみが享受することが出来るのである。

私は神のために断食もし、不眠にも陥った、痩せもしたし、禁欲もした。ある時は、神を見出だすためには自分の生命ですら喜んで絶とうと思った。しかしそもそも、偽善者である弱き自分にはその入場券すら与えられておらず、私は単に埒外にいて、貴族の真似をしていたに過ぎなかった。

砂礫のみが砂礫を知り、金のみが金を知るように、私は偽善者として教会の中の偽善の分子を見てしまった。そして自分はそれを白々しくみないふりをして寛大に構えることはできなかった。それほど、偽善者になるには強みが弱みよりも多すぎたのかもしれない。結局私は、自分の偽善が私の属する団体を汚すことを恐れて、そして団体の悪い方の分子が自分を苦しめるのを厭って、教会から逃げ出してしまった。

けれども私は小さな声で私にだけささやきたい。私はこの「偽善者から更に偽善者になろう」とする心の働きを避けたいと思わないわけではなかった。外界に支配されやすい私は、手厳しい外界に囲まれるほどに自分ですら思いもかけない偽善を重ねるのに気づき、それを恐れていた。

偽善者であらぬようになりたいというのが過分な欲求であると見られるかもしれないが、偽善者は全て、偽善者でなかったらよかろうという気持ちをどこかすみに隠し持っているものだ。

4

長い回り道。それを短くするには、自分の生活に対する不満を本当に感じる他にない。生老病死の諸苦、性格の欠陥、あらゆる失敗、それを十分に噛みしめて見ればそれでいいのだ。しかしそれを言葉で言うのは簡単であっても、実現するのは容易ではない。

私はまず、自分の個性がどんなものであるかを知りたいがために、他人の個性に触れて見ようとした。歴史の中にそれを見出そうと勉めたり、芸術の中にそれを見出そうと試みたり、隣人の中にそれを見出そうと求めたりした。私は多少の知識は得たに違いなかった。私の個性の輪廓はおぼろげながら私の眼に映るように思えぬではなかった。しかしそれは結局私ではなかった。物を見る事、物をそれ自身の生命において間違いなく捕捉する事は容易なことではないのだ。

聡明で上品な人はしばしば仮象に満足する。正確には満足というより、現象であれ実在であれ結局は意識の仮初な遊戯にすぎないと傍観しているのである。そこに執着をつないで葛藤を加える行為は、要するに外面的な迷妄にすぎないというのだ。それらの境を静かに超越して淋しい微笑を贈ろうとする。そこには、冷ややかでありながら皮相ではない上品さが漂っている。

あるいはそれらを全て抱いて自由に身を任す。昼には歓楽し、夜には遊興し、身を凡俗非議の外に置く。ある人はこのような人々を酔生夢死の徒と呼んで唾棄するかもしれない。しかし私にとっては、その人々のどこかに、自分を引きつけるものがあると感じられる。私が持っていない上品さや聡明さが伺われる。

主義者と呼ばれる人の心を、私は時にさびしく物足りなく思う。自分の天分をひっさげて、人間を唯一つの色に塗りつぶそうとするからだ。その意気の尊さはいうまでもないが、その影には尊さそのものをすら凍らせるような寂しさを含む。

私は、全てを仮象の戯れだとみて心を落ち着けることができない。そしてそれを悪いことだとさえ思わない。もしそれらを捨てて、私の個性を本当に知りたいという欲求をなげうったならば、私は今よりもっと不安に責められるに違いない。だから私は依然として私自身であろうとする衝動から離れ去ることが出来ない。

かくして外界の機縁で私を創り上げる試みに失敗した私は、更に立ちなおって、私と外界とを等分に向い合って立たせようとした。私がある。そして私がある以上は私に対立して外界がある。外界は私の内部に明らかにその影を投げている。従って私の心の働きは二つの極の間を往来しなければならない。自分が思い切って一方を取れば、退けねばならない他の一方がある。だがその二つのいずれも潔く捨てるに忍びない。

私の生の欲求は思いの外に強く深く、何者をも失わないで、凡てを味い尽して墓場に行こうとする。たとえ私が純一無垢の生活を成就しようとも、この存在に属するものの中から何かを捨ててしまわねばならぬとなら、それは私には堪えられないほどに淋しいことだ。

私は矛盾の中に住み通そうとも、人生の全てを味わい尽さなければならない。相反して見える二つの極の間で彷徨うことで自身の内部に不安を得るようなことがあっても、それに耐えながら両極を恐れることなく掴まねばならない。もしそれらを掴むのが不可能であるならば、公平な観察者・鑑賞者となって、両極の持味を浮かべながら死のう。

人間として持ち得る最大な特権はこの外にはない。この特権を捨てるなら、そこに残されるものは捨てるにさえ値しない枯れ寂れた残りかすのみではないか。

5

しかし私はそこに満足を得ることが出来なかった。両極の観察者になろうとした時、私の力はどんどん私から逃れ去ってしまった。

これは私として極端に堪えがたい事だ。かのハムレットが感じたと思われる空虚や頼りなさを感じ、私は始めて主義者の心持ちを察することが出来た。あの人々は生命の空虚から救い出されたいがために、他人の自由にまで踏み込んでも、力の限りを一つの極に向って用いつつあるのだ。場合によって、それはある人にとっては迷惑なことであるかもしれないが、だが彼らにとってそれは致命的に必要なものなのだ。

主義のために生命すら捨ててその緊張を保とうとする心持ちはよく解るけれど、しかし私には生命を賭してまで主張すべき主義はない。もし主義というべきものがあったとしても、私自身を見失うほどにそれに没頭することは出来ない。

私の過去には何十年の遠きにわたる歴史がある。そして私の身辺にはあらゆる社会の活動と優れた人間とがある。それらの絶大な重圧は、私を怯えさすのに十分すぎた。思えば、私が今まで自分自身に帰らずにひたすら躊躇していたのも、この外界の威力の前に私自身の無為を感じていたからなのだ。どうにかして、この絶大の威力と調和 ―もしくは妥協しようとさえ試みていたのだった。

しかしそれは失敗した。そういう試みは一時的に多少私の不安を取り除いたが、更に深い不安に私を導くのであった。

それは私が大胆でかつ誠実であったからではない。偽善者なる私にも少しばかりの誠実はあったといえるかも知れないけれど、少なくとも大胆ではなかった。私は弱かったのだ。

何物にも信頼する事の出来ないのが弱い人の特長だ。しかも何物にか信頼しないではいられないのが他の特長だ。大きな威力は無尽蔵に周囲にある。しかし私の怯えた心はそのいずれにも無条件的な信頼を持つことが出来ないで、危懼と躊躇とに満ちた彷徨の果てに、我ながら憐れと思う自分自身に帰って行くのだ。

運命は不公平であることがない。彼等には彼等のものを与え、私には私のものを与えてくれる。しかも両者は一度は相失う程に分れ別れても、いつかどこかでまたふと出遇うのではないだろうか。しかしそれを私が顧慮する必要はない。

私は私の道をまっしぐらに走って行く外ない。

6

私の個性は私に告げてこう云う。
(ここからは、私=個性、お前=私自身)

私はお前の真髄だ。私は肉体を離れた一つの概念というわけではない。また霊を離れた一つの肉体の盲動というわけでもない。お前が、’お前の外部と内部が溶け合った一つ’の中にお前の存在をもっているように、私もまたその全体の中で厳しく働く力の総和である。

さて、人間を地球として見立てた場合、お前は地殻のようなものだ。

地球の内部を外部から観測することは出来ない。外部から見て、一番良く気のつくところはなんと言ってもこの表面であるから、人々は私に注意せず、お前ばかりを見てお前の全体だと窺っている。お前もまたお前だけの姿を見て私を顧みない。恐れたり迷ったり臆したり外界を見るにしても、その表面だけを窺って満足している。

私が如何なるものであるかをお前が本当に知らない間、お前の外界を見る眼はその正しい機能を失っているのだ。それではいけない。そんなことでは、たとえお前がどれ程あくせくして進んで行こうとも一歩も進んではいないのだ。

お前にとって私以上に完全なものはない。その意味は、世の中の人々が言う所の神や仏のように完全であろうというのではない。私は人間のように人間的だ。

もしお前が私を無視して、肉(欲求)に身を委ねると、そこには実質のない悪魔というものが、さも厳しい実質を備えたかのように現れる。反対に、霊(崇高さ)にだけ身を委ねると、そこには実質のない天使というものが、さも厳しい実質を備えたかのように現れる。

そんなことをしている間にお前は私から離れ、実質のない幻影に捉えられ、お前の内には苦しい対立関係が生まれる。霊と肉、天国と地獄、天使と悪魔、それから何、それから何……対立した観念を持ち出さなければ何んだか安心が出来なくなる。そのくせ観念が対立しているとなんだか安心が出来ない。両天秤にかけられたような、底のない空虚に浮んでいるような不安がお前を襲って来るのだ。

そうなればなる程お前は私から遠ざり、お前が一つ残らず外部の力によって支配されるようになる。お前には及びもつかぬ理想が出来、良心が出来、道徳が出来、神が出来るが、それは私がお前に命じたものではなく、外部から借りて来たものばかりなのだ。

そうした生活を社会は褒め上げるだろう。人間の生活は、(その欲求の奥底に成長という大事な因子を持っているものの)習俗は平和―というよりも単なる無事―に執着しようとしている。何事もなく昨日の生活を今日に繋ぎ、今日の生活を明日に延ばすような生活こそ最も面倒のない生活だと信じている。

そんなことをしてお前が外部の圧迫の下に虚偽な生活を続けている間に、いつしかお前は私をだしぬき、思いもよらぬ聖人となって英雄となってしまうだろうが、その時お前はもうお前自身ではなく、すなわち一個の人間ではなく、人間の皮をかぶった専門家になってしまうのである。自分を置きざりにして外部にのみ身売りをする専門家は既に人間ではなく、いかに立派でも、立派な一つの機械にしか過ぎない。

どれだけ心が汚くとも、力なくとも、人間は人間であることによってのみ尊い。この尊さから退くことは、お前を死滅に導くのみならず、お前の奉仕しようとしている社会そのものを死滅に導く。人間の社会は生きた人間によってのみ造り上げられ、維持され、存続され、発達させられるからだ。

お前は機械になることを恥じねばならぬ。少しはこちらを向いて見るがいい。そして本当のお前自身なるお前の個性がここにいるのを思い出せ。

しかし私を見出したお前はまず失望するに違いない、私はお前が夢想していたような立派な姿ではないから。お前が外部的に教え込まれている理想のものさしで考えると、私はいかにも物足らない存在として映るだろう。私は悪魔ではない代りに天使でもない。私にあっては霊肉というような区別は全く無益である。善悪というような差別は全く不可能である。

私は全体として成長をするばかりであるが、私の成長は、お前が思う程に迅速なものではない。理想という病気に侵されているお前は、私の成長をもどかしがって、外部の刺激にばかり身を任せようとする。しかしそれでどこかに行き着くことが出来たとして、その時お前は既に人間ではなく、ただの専門家 ―即ち非情の機械になっている。だからお前は私の支配下にいなかればならない。

個性に立ち返れ。
今までのお前の名誉と、功績と、誇りとの全てを捨てて私に立ち帰れ。

お前は生まれた時から外界と接触し、外界の要求によって育て上げられて来た。外界は、言ってしまえばお前の皮膚を包む皮膚のようになっている。だからお前が私を出し抜いて先き走りをするのも一面からいえば無理のないことだ。しかしそんなことをした結果、お前は、不可避的に心に起こる不愉快な感じを、ただの努力に伴う感覚だと無理やり思いこむようになってしまった。そんなことをしている間に例えどれだけの仕事を成し遂げようと、お前自身全く成長できていない。

お前は一度信仰の門をくぐったことがあろう。人のすることを自分もして見なければ物足りないという淋しさから、お前は宗教というものに手を染めて見たのだ。

個性なる私は、渇仰的という点 ―即ち成長の欲求をはげしく抱いている点では宗教的ということが出来る。しかし私はお前のような浮薄な歩き方はしない。

お前は私を顧みずに、習慣や軽い誘惑に引きずられて、友達や聖書や教会に走っていった。一方では崇高な告白をしながら一方では罪を犯してきた。そして信仰の虚偽があばかれそうになったときはお前はお前自身を聖書の言葉によって弁護した。結局お前が神として称したものは、ことごとく私の影に過ぎなかった。お前は私を出し抜いて宗教生活に走っておきながら、その信仰の対象を私の姿になぞらえて造っていたのだった。それだからお前の祈りは、空に向かって投げられた石のように冷たく、力なく、再び自分の上に落ちてくるほかなかった。それらの苦々しい経験に苦しんだにもかかわらず、お前は頑固にもお前自身を欺いて、それを精進と思っていた。そしてお前自身を欺くことによって他人をまで欺いていた。お前はいつでも心にもない言行に、美しい名を与える詐術を用いていた。

しかしそれに飽き足らず思う時が遂に来ようとしている。まだいくらか誠実が残っていたのはお前に取って何たる幸だったろう。お前は久しく捨ておいた私の方へ顔を向けはじめた。

今、お前は、お前の行為の大部分が虚偽であったのを認め、またお前は真の意味で一度も祈祷をしたことのない人間であるのを知った。これからお前は前後もふらず、お前の個性と合一するために勤しまなくてはならない。お前の個性に生命の泉を見出し、個性を礎として、その上にありのままのお前を築き上げなければならない。

7

私の個性は更に私に告げてこう云う。

まず何より先に私がお前に要求することは、お前が外界の標準から眼をそむけて私に帰って来ることだ。恐らくそれはお前には頼りなげに思われるだろう。外界の標準というものは、古い人類の歴史と現代の人類活動の諸相との集成から成り立っている。それから全く眼を背けて私だけに注意するというのは、頼りなく心細くも思われることに違いない。

しかしお前に言う。
躊躇するな。

お前の個性なる私は、多くの人の個性に比べて見たら卑しく劣ったものであろうけれど、お前にとって私の外に完全なものはないのだ。

お前は、お前がこれまで外界に対してし慣れていたように、私を勝手次第に切りこまざいてはならない。お前が外界と交渉していた時のように、善悪美醜というような見方で、強いて私を理解しようとしてはならない。

お前が私の全要求に応じた時においてのみ私は成長を遂げるであろう。お前は、私に従うがために引き起こされる思想や言説や行為が仮に外界の伝説や習慣や教訓と衝突矛盾を惹き起すことがあろうとも、決して心を乱して私を疑うようなことをしてはならない。

私達の肉体と霊体は、差別の出来ない一体となって個性の中に生きている。水を考えようとする場合に、それを水素と酸素とに分解して、どれ程綿密に二つの元素を研究したところが、何の役にも立たないだろう。水は水そのものを考えることによってのみ理解される。

だから私がお前に望むところは、私の要求を、お前が外界の標準によって、支離滅裂にすることなくその全体をそのまま摂受して、そこにお前の満足を見出す外にない。

これだけの用意が出来上ったら、もう何の躊躇もなく突き進む準備が整ったのだ。私の誇りかなる時は誇りかとなり、私の謙遜な時は謙遜となり、私の愛する時に愛し、私の憎む時に憎み、私の欲するところを欲し、私の厭うところを厭えばいいのである。このようにしてお前は初めてお前自身に立ち帰ることが出来るだろう。その時お前は初めて’永遠の肯定’の門口に立つことが出来るようになった。

お前の実生活にもその影響がない訳ではない。これからのお前は必然によって動いて、無理算段をして動くことはない。私に即した生活にあっては、そんな無理算段はいらないことだ。いかなる欲念も結局はお前の個性の成長の糧となるのであるが故に、お前はそれに対して臆病であるべき必要がなくなる。

お前はまた私に帰って来る前に、人類に対するお前の立場の調和について迷ったかも知れない。まっしぐらにお前が私と一緒になって進んで行くことが人類に対して迷惑となり、そのために人間の進歩を妨げ、生活の秩序を破り、節度を壊すような結果を多少なりともひき起しはしないかと、そうお前は迷っただろう。

しかしお前がこの問題に対して真剣になればなる程、そうした外部的な顧慮は、お前には考えようとしても考えられなくなって来るだろう。水に溺れて死のうとする人が、世界の何処かの隅で、小さな幸福を得た人のあるのを想像して、それに祝福を送るというようなことがとてもあり得ないと同様に、お前が真に緊張して私に来る時には、それから結果される影響などは考えてはいられない筈だ。

お前に言って聞かす。そういう問いを発し、そういう疑いになやむ間は、お前は本当に私の所に帰って来る資格は持ってはいないのだ。お前はまだ徹底的に体裁ばかりで動いている人間だ。それを捨てろ。私は緩慢な歩き方をしていない。自分の生命が脅かされているくせに、外界に対してなお閑葛藤(かんかっとう)を繋いでいるようなお前に対しては、恐らく私は無慈悲な傍観者であるに過ぎまい。私は冷然としてお前の惨死を見守ってこそいるだろうが、恐らく一切の力をも貸すことはない。

お前は安んじて、確信をもって、お前の道を選べばいいのだ。精神と物質とを、個性と仕事とを互に切り放した文明がどれ程進歩しようとも、それは無限の沙漠に流れこむ一条の河に過ぎない。それはいつか細って枯れはててしまう。

私はこれ以上をもうお前に言うまい。お前は少し動かされたようだな。選ぶべき道に迷い果てたお前の眼には、故郷を望み得たような光が私に対して浮んでいる。憐れな偽善者よ。ある時はやや強く、ある時は強さを羨む外にない弱さに陥る偽善者よ。お前の強さと弱さとが平均していないのはまだしもの幸だった。お前は多分そこから救い出されるだろう。その不平均の撞着(どうちゃく)の間から僅かばかりなりともお前の誠実を拾い出すだろう。その誠実を取り逃すな。もしそれが純であるならば、誠実は微量であっても事足りる。本当をいうと不純な誠実というものはない。また、量定さるべき誠実というものはない。誠実がある。そこには純粋と全てとがあるのだ。だからお前は誠実を見出したところに勇み立つがいい、恐れることはない。

立て。そこにお前の眼の前には新たな視野が開けるだろう。それをお前は私に代って言い現わすがいい。お前は私にこの長い言葉を無駄に言わせてはならない。私は暖かい手を拡げて、お前の来るのを待っているぞ。

私の個性は私にこう告げて、しずかに口をつぐんだ。

8

私の個性は少しばかりではあるが、私に誠実を許してくれた

誰しも一度は、この力に促されてその人自身に帰って行くのだ。一人として個性との遭遇を避け得るものはない。私もまた人間の一人として、人間並みにこの時個性と顔を見合わしたに過ぎない。ある人よりは少し早く、そして或る人よりは甚だおそく。

これは少なくとも私にとっては何よりもいいことだった。私は長い間の無益な動乱の後に初めていささかの安定を自分のうちに見出した。

私はこれからでも無数の煩悶と失敗とを繰り返すだろうが、それらのものはもう無益に繰り返されるわけではない。煩悶も必ず滋養ある食物として私に役立つだろう。

私のこの安心に身を任せながら、私の知り得たところを(主に私自身のために)書きしるしておこうと思う。私の経験は狭く貧しく、とても普遍的な訴えとは呼べないものであることを私はよく知っている。ただ、私に似たような心の過程に在る少数の人がこれを読んで僅かにでも会心の微笑を酬いる事があれば、私自身を表現する喜びの上に更に大きな喜びが加えられることになる。

秩序もなく系統もなく、ただ喜びをもって私は書きつづける。

9

センティメンタリズム、リアリズム、ロマンティシズム――この三つのイズムは、それを抱く人の資質によって決定される。

ある人は、過去に現われたもの(もしくは現われるべきだったもの)に対して愛着を繋ぐ。そして現在や未来についてを、過去という基調によって導こうとする。「全ての美しい夢は経験の結果から生れ出る。経験そのものからではない」という見方によって生きる人はセンティメンタリストだ。

またある人は、未来に現われるもの(もしくは現わるべきもの)に対して憧憬を繋ぐ。「既に現われ出たもの、今現われつつあるものは、すべて醜く歪んでいる。止むことの無い人の欲求を満たし得るものは、現われ出ないものの中にのみ潜んでいなければならない」といった見方によって生きる人はロマンティシストだ。

更にまたある人は現在に最上の価値をおく。「既に現われ終ったものはどれほど優れたものであろうとも、それを現在にも未来にも再現することは出来ない。未来にいかなるよいものが隠されてあろうとも、それは今の私達の手の中にはない」「現在には過去にあるような美しいものはないかも知れない。また未来に夢見られるような輝かしいものはないかも知れない。しかしここには具体的に把持さるべき私達自身の生活がある。全力を尽してそれを生きよう。」そういう見方によって生きる人はリアリストだ。

第一の人は伝説に、
第二の人は理想に、
第三の人は人間に。

この私の三つのイズムに対する見方が誤っていないなら、私はリアリストの群れに属する者である。なぜなら私は今、私自身の外に依頼すべき何者をも持っておらず、その私なるものは現在にその存在を持っているのだから。

私にも過去や未来はある。しかし私が一番頼らねばならない私は、過去と未来とに挾まれた現在の私だ。私は過去と未来によって現在を見ようとはせず、現在の私の中に過去と未来とを摂取しようとするのだ。即ち過去に対しては感情の自由を獲得し、未来に対しては意志の自由を主張し、現在の中にのみ必然の規範を立しようとする。

何故お前はその立場に立つのだと問われるなら、そうするのが私の資質に適するからだという外にはない。私には生命に対する生命自身の把握という事が一番尊く思われる。即ち生命の緊張が一番好ましいものに思われる。そして生命の緊張はいつでも過去と未来とを現在に引きよせるではないか。

私の存在の確実な承認は現在によってのみ与えられる。だから私は現在を唯一の宝玉として尊重し、それを最上に生き行く外に残された道はない。

かといって、どうして私は過去の全てを蔑視して未来の全てを無視することができるだろうか。私はただ「過去のものは現在から遊離している」と考えるのが全く無益徒労であると思うだけだ。それらのものは厳密に私の現在に織りこまれることによってのみ、その価値を有し得る。未来についても私は同じ事が言い得ると思う。私を除いて私の未来を完成し得るものはない。私の現在が最上に生きられるなら、私の未来は最上に成り立つ。

センティメンタリストの痛ましくも甘い涙は私にはない。またロマンティシストの快く華やかな想像も私にはない。すべての欠陥とすべての醜さとを持ちながらも、この現在は私に取っていかに親しみ深くいかに尊いものだろう。そこにある強い充実の味と人間らしさとは私をひきつけるに十分である。

10

しかしながら、個性の完全な飽満と緊張はいかに得がたいものか。

外界との接触から自由であることが出来ない私の個性は、常に外界に対し何らかの角度を保ってその存在を持続しなければならない。

ある時は私は外界の刺激をそのままに受け入れて反省もなく生活している。ある時は外界の刺激に対して反射的に意識を動かして生活している。またある時は外界の刺激を待たずに、私の生命がある止むなき内的な力に動かされて外界に働きかける。

こうした変化はただ私の生命の緊張度の強弱によって結果される。これは智的活動/情的活動/意志的活動というように、生命を分解して生活の状態を現わしたものではない。

そもそも人間の生命的過程に智,情,意というような区別は実は存在していないのだ。生命が二つ以上の対象について選択をなす場合を智といい、対象を変じ、もしくは力の量を変化して生命が働きかける場合を情といい、生命がある対象に対して変化なく働き続ける場合を意志と名づけたに過ぎないのだ。

人の心的活動はこれらの三頭政治の支配を受けているのではなく、もっと純一な統合的な力によって総轄されているのだから、智情意の現象をいかに科学的に探究しても、心的活動そのものを掴むことは思いもよらない。

さて私は岐路に迷い込もうとしたようだ。私は再び私の当面の問題に帰って行こう。

外界の刺激をそのまま受け入れる生活を仮に習性的生活と呼ぶ。私達の祖先が経験し尽した事柄が更に繰り返されるにあたって、私達はもう自分の能力を意識的に働かす必要はなくなる。こうした物事に対する生活活動は単に習性という形でのみ私達に残される。この生活においては全く過去の支配の下にある。私の個性の意識は少しもそこに働いていない。

私はこうした生活を無益だというのではない。こうした生活によって私の日常生活はどれほど煩雑な葛藤から救われているだろう。この緩慢な生活が一面に成り立つことによって、私達は他面に、必要な方面、緊張した生活の欲求を感じ、それを達成することが出来る。

しかし、このような生活は私の個性からいうと、個性の中に属させたらいいものかわるいものかが疑われる。何故なら、私の個性は厳密に現在に執着しようとしているにも関わらず、この生活は、過去の集積が(私の個性と無関係に)私に働きかけているからだ。その上、こうした生活の内容は甚だ不安定な状態にある。外界の事情がいささかでも変わればもうそこにはこの生活は成り立たない。私は安んじてこの生活によりかかっていることが出来ない。また本能として自己の表現を欲求する個性は、習性的生活にのみ依頼して生存することをよしとしない。単なる過去の繰り返しによって満足していることが出来ない。何故ならそこには自己などは無く、ただ習性があるばかりだから。外界と自己との間には無機的な因縁があるばかりだから。私は石から、せめては草木なり鳥獣になり進んで行きたいと希う。この欲求の緊張は私を駆って、更に異なった生活の相を選ばしめる。

11

それを名づけて私は智的生活とする。

この種の生活において、私の個性は始めて独立の存在を明かにし、外界との対立を成就する。それは反射の生活である。外界が個性に対して働きかけた時、個性はこれに対して意識的の反応をする。即ち経験と反省とが、私の生活の上に表われて来る。これまで外界に征服されて甘んじていた個性はその独自性を発揮して、外界を相手取って挑戦する。

習性的生活において私は無元の世界にいたが、智的生活において私は初めて二元の生活に入る。ここには私がいて、外には外界がある。外界は私に攻め寄せて来る。

私は経験という形式によって外界と衝突する。そしてこの経験の戦場から反省という結果が生まれ出てくる。そしてそれは経験の結果を分類する。こうして類別せられた経験の堆積を、人々は知識と名づける。知識を整理するために私は信憑すべき一定の法則を造る。こうして知識の堆積の上に建て上げられた法則を人々は道徳と名づける。

道徳の内容は知識の変化と共に変化する。知識の内容は外界の変化と共に変化する。それ故道徳は外界の変化につれて変化せざるを得ない。

世の中には、道徳の変易性を物足らなく思う人が少なくない。自分を律して行くべき唯一の規準が絶えず変化せねばならぬという事は、直ちに人間生活の不安定そのものを予想させる。

私に不変であると感ぜられるものは、私に内在する道徳性である。即ち、自己を外界に対して律すべき規準を知識の集成の中から造り出そうとする動向は、その内容において変化することなく自存する。

道徳性と道徳は全く異った観念である。私にとっては、道徳の内容の変化するのは少しも不思議ではないし、困ることでもない。ただ変えようと思っても変えることの出来ないのは道徳を生み出そうとする動向(道徳性)だ。そしてその内容が変化すると仮定するのは私に取って淋しいことだ。しかし幸に私はそれを不安に思う必要はない。私は自分の経験によってその不易を十分に知っているからである。

知識も道徳も、私の生活の努力がその内容を充実し得ない間は、知識として道徳として厳存する。しかし私が努力を止めれば、知識も道徳も習性の閾の中に退き去り、その価値は失われてしまう。

私が無意識にただ外界の刺激にのみ順応して行っている生活の中にも、他のある人から見てれば道徳的行為と見られるようなものがあるかも知れない。しかしその場合私にとっては決して道徳的行為ではない。何故なら、道徳的であるためには私は努力をしていなければならないからだ。

智的生活は反省の生活であるばかりでなく努力の生活だ。人類はここに長い経験の結果を綜合して、共に依拠すべき範律を作り、その範律に則って自己を生活しなければならぬ。

努力は実に人を石からふるい分ける大事な試金石だ。全ての人間は、智的生活の所産なる知識と道徳とを讃美する。それは真理に対する人類の飽くことなき精進の一路を示唆する現象だ。全ての懐疑と全ての破壊との間にあって、この大きな力はかつて磨滅したことがない

しかし私は「この生活に無上の安立を得ることができ、心の空しさを感ずることは果てして無いのか」と聞かれれば、これに否と答えなければならない。個性は外界によって囲まれているにもかかわらず、個性自身において満ち足りていなければならない。その要求が成就されるまでは絶対に飽きることがない。

智的生活がそれを私に満たしてくれたかというと、そうではなかった。何故ならば智的生活は何といっても二元の生活であるからだ。そこにはいつでも個性と外界との対立が必要とせられる。私はその一方にのみ安住しているに堪えない。

智的生活の出発点は経験である。経験とは要するに私の生活の残滓である。それは反省 ―意識のふりかえり― によってのみ認識せられる。ひとつの事象が知識になるためにはその事象がひとたび生活によって濾過されたということを必要な条件とする。

ここに一つの知識があるとする。私がそれをある事象の認識に役立つものとして承認するためには、 例えその知識が他人の経験の結果によって出来上ったものであれ、私の経験もまたそれを裏書したものでなければならない。

だから私の有する知識とは、要するに私の過去を整理し、未来に起り来たるべき事件を取り扱う上の参考となるべき用具である。私と道徳とにおける関係もまた全く同様な考え方によって定めることが出来る

私の生活が平安であること、そしてその内容が潤色されることを私は喜ばないとはいわない。私の内部には言うまでもなくこうした要求が大きな力を以て働いている。けれども私は永久にこの保守的な動向にばかり膠着して満足することはできない。

社会的生活において、この保守的な智的生活の要求は個人のそれよりも強い。平安無事ということが社会生活の基調となりたがる。だから今の程度の人類生活の様式下にあっては、個人的の飛躍的動向を無視圧迫しても、智的生活の確立を希望する。現代の政治も、教育も、学術も、産業も、大体においてはこの智的生活の強調と実践とにその目標をおいている。だからもし私がこの種の生活にのみ安住して、社会が規定した知識と道徳とに依拠していたならば、恐らく社会からは最上の報酬を与えられるだろう。そして私の外面的な生存権は最も確実に保障されるだろう。そして社会の内容はますます平安となり、潤色され、整然たる形式の下に統合されるだろう。

しかし私は、智的生活よりも更に緊張した生活をも指向している。社会的生活は往々にして一個人のそれより遅鈍であるとはいえ、私の持っているものを社会が全然欠いているとは思われない。つまり、私の欲するところは社会の欲するところであるに相違ない。

私が私自身になり切る一元の生活、それを私は久しく憧れていた。私は今その神殿におもむろに進みよったように思う。

12 まだ途中